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津軽野の春

 私は宙をみた。自分でも、もういまわの際だと悟っていた。
空音(そらね)の澄んだ声が、三味の音と交じりあって、私の身体を空高く運んで行くのを覚えた。

 菅江真澄(江戸末期の旅行家・博物学者)は、三十歳の時、故郷を離れ旅に出た。
 信州・東北から蝦夷地にいたるまで長い旅を重ねて、弘前にたどり着いた時は、すでに十七年もの歳月が流れていた。
 真澄は弘前に来てすぐ弘前藩主津軽寧親(やすちか)の薬事係に任命されが、村人と必要以上に接近した為、盛岡藩の間物ではないかと疑われ、ついに追放される憂き目にあった。
 村の中に逃げ込んだ真澄は、或る一軒家の門を叩いた。
「夜分(やぶん)申し訳ない。事情があって、一晩泊めてもらうわけにはいくまいか」頭巾をすっぽり被った旅びと風の男は云った。
 頭巾を取ったその人を見て
「あ! 貴方様は… もしかして菅江様ではござりませぬか?」その家の主は、しばらく驚いたようだったが、何かを覚ったらしく
「さ、さ、どうぞお入りになって下さいませ」
 菅江の着物は、すっかり夜露に濡れていた。
 津軽の晩春の夜は、未だ肌寒い。
「お千代、桶にお湯を張りなさい」女房は、桶にお湯を張り、菅江の足を温めた。
「どうぞ、こんなむさ苦しい所ですが、お上がりなさって下さいませ」千代はいろりに火をくべた。暫くして膳が運ばれてきた。
「こんな貧乏所帯で何の御もてなしも出来ませぬが…」家の主は申し訳なさそうに云った。
「いやいや、とんでもない。このような夜半にこちらこそ、無礼をお許し願いたい」
「もしよければ、娘の短歌(うた)を聞いてやっては頂けませぬか」
「それは有難い。是非お聞かせ願おうか」
「空音、こちらへ」静かに襖を開け娘が現れた。未だ結い初めの襟足がなんとも清々しい。
 娘の目は閉じられていた。黒い睫毛が娘の白い顔を一層引き立たせ、なんとも美しい。
「この子は七つの時、高熱を出し、命は取り留めましたがそれ以来、目を患いまして…」主人は、物静かに話した。
 歳の頃は、一七、八か。
 娘は深く一礼し三味の音と共に歌い始めた。
「世の中の善きも悪しきもみえませぬ ただ浮かぶのは 津軽野の春」
 凛として透き通った娘の歌を、目を閉じながら聞き入った。濁り酒が、歌と共に、五臓六腑に滲みわたる。
「良い短歌(うた)だ。どなたの短歌であろうか?」
「いえ、これは娘が連れずれに歌った物でございます」
 暗闇に、雪かと見まごうほどの、りんごの花びらが、静かに舞い散っていた。


-fin-



2013年4月課題
   『おもてなし』をテーマにフィクションを書く。

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